井原いきざま総合研究所



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井原いきざま総合研究所

郷土歴史講演会 令和2年11月15日

稲積家の年貢古文書による井原のすがた


  • 「浜田藩領「年貢割付帳」からみる村のすがた」と題して、 浜田市教育委員会鍵本俊朗専門員から、稲積家に保存されていた古文書を読み解いて 昔の井原を語っていただきました。
  • 主催は井原を知る勉強会、故里を探る会、瑞穂古文書の会、邑南の郷土を語る会の 4団体の共催で行いました。場所は井原公民館体育館を使用しました。。
  • 領主から年貢割付状が出され、村役人、個々の百姓へと伝わっていたそうです。
  • 自然災害とか一揆などもあり控除項目とか定免制の実施とかの話もあり当時の村のすがたが 分かるような気がします。井原は年貢は多い方だったようです。井原の中でも コメのよくできるところそうでないところがあり年貢も違ったそうです。
  • 60人余りが集まる講演会でしたが、コロナ対策のためマスク着用はもちろんのこと 体温チェック、座る間も2メートル程度話しての講演会でした。


    今後の活動

    <第2ステップとしてお祭り等個別事項の記録を作ります>

  • 井原を知る勉強会の中でいろいろ話があった井原祭り、彼岸市、盆踊り、運動会、 昔の遊びについて個別にまとめて冊子とする作業を開始しました。
         井原を知る勉強会特別編 昔の遊び (令和2年5月刊)
         井原を知る勉強会特別編 彼岸市  (令和2年6月刊)

  • 第3ステップは、出来上がった成果物を活用した子供のふるさと教育、地域活動に展開予定です。


  • <第1ステップ 井原賢人語り部による「井原を知る勉強会」>


  • 平成30年4月4日、島根県から表彰されました。


  • <井原を知る勉強会>

    第1回 平成27年5月13日 「井原のこと」 日野山義晴(宮野原)
    第2回 平成27年7月9日 「野田愼翁と断魚渓」 宮田 博(断魚)
    第3回 平成27年9月10日 「井原地区地名の由来」 下田哲士(片田)
    第4回 平成27年11月12日 「昭和2年からの戦前、戦中の井原」 松林文雄(満行寺)
    第5回 平成28年1月21日 「私の戦前、戦中、戦後の回想」 甲村正巳(日向)
    第6回 平成28年3月10日 「天蔵寺の今と昔とこれから」 竹村祥子(天蔵寺原)
    第7回 平成28年5月12日 「加茂神社と折居神社」 天津憲徳(折居神社宮司)
    第8回 平成28年7月14日 「映画黄金時代を支えた松林宗恵監督 その軌跡と原点を井原に視る!」 稲積慎吾(西野原)
    第9回 平成28年9月15日 「戦中、戦後の井原の産業と私の歩み」 日高邦男(日向)
    第10回 平成28年11月12日 現地視察「断魚渓散策 二十四景めぐり」 宮田 博(断魚)
  • 第11回 平成29年1月12日 「井原の昔話と私の経験」 
    第12回 平成29年3月9日 「母ワサコの久料話と私の思い出」 
    第13回 平成29年5月11日 「井原の山城」 
    第14回 平成29年7月13日 「心のふるさと井原」 
    第15回 平成29年9月14日 「樹木の和名とその方言名」 
    第16回 平成29年11月9日 「100年前の井原そして今」 
    第17回 平成30年3月8日 「井原の昔(祖父から聞いた昔の井原)」 
    第18回 平成30年5月10日 「井原小学校勤務時代の思い」 
    第19回 平成30年7月12日 「邑南たたら製鉄」 
    第20回 平成30年9月13日 「井原のいきざま・私のいきざま                  〜井原を知る勉強会を振り返って〜                       神田恵介(片田)
      子供にふるさと意識が醸成し、井原に誇りを持ち井原の後継者となる若者が育つことを期待しています。

    <井原を知る勉強会ひとまず終了>

  • 井原を知る勉強会も平成27年5月から始まり、一応、地域創成ふるさと学校長神田恵介氏の 第20回記念しめくくり講演を持ってひとまず終了しました。

    <井原の語り部ふるさと井原続井原村誌いきざま編第二集>

  • 第一集を平成29年3月発行しましたが、第11回から第20回を収録した第二集を発行予定です。
  • ご期待ください。

    <第二集に収録した「はじめに」>

    第二集はじめに
    井原を知る勉強会は平成27年5月から始め20回を数えました。 1回から10回を活字にしたものを「井原の語り部ふるさと井原続井原村誌いきざま編第一集」として平成29年3月に発行しましたが、今度その続編として「第二集」を発行することとなりました。 今回はより詳しい話やらいろいろの分野に話が拡がり、大正6年の「井原村誌」以降戦後まで空白となっていた井原のいきざまが明らかになりました。 「井原村誌」は風土とか気候、地理まで書かれた立派なものでしたが、その後、大東亜共栄圈構想などがでてきて日本の歴史に汚点を残す戦争の時代となり、井原村もそのあおりを受けています。 そして敗戦後は「戦争の話はするな」「原爆の話はするな」ということが言われるようになり昭和初期から昭和20年終戦までのいきざまは日本全国同じですが、余り語られることはなくなりました。 戦争で男性はかり出され女性が田舎を守り小学校の校庭が芋畑になるなど、食料にも窮することとなり、戦争時代のいきざまはいろいろあったところです。 しかし、最近は「二度とこのような戦争を起こすこととならないよう、その時代の実態を語り継いでいかなければいけないんだ。」ということが言われるようになり、特にこの井原を知る勉強会でも少し話が出ていましたが特攻隊の話とか、原爆の話などがありました。特攻隊の話は先般NHKでも放映していましたし、原爆は広島で実際に被爆された方が語り部となって語り継いでいかなければ忘れ去れてしまうという運動が行われていますが、被爆者も高齢となり、この語り部を被爆していない方が受け継いで行くこととしたなど、この井原を知る勉強会と相通じるものがあると思います。 歴史もそうですが井原には井原の日本古来からの田舎のふるさとがまだ残っている貴重な村(地域)だと思います(井原は弥生時代からあったとこの本の中でも出てきています)。自然のすばらしさ、伝統の祭り、行事、神楽など世界に誇れるものが多々あります。地げの人は気付いておられないかもしれませんが、自然がいっぱいで、おおらかで、素朴で他の所から見ればすごくうらやましいところなのです。 これは語り継ぎ、存続していかなければなりません。 そのためにはこの「井原を知る勉強会」で語り部さんにいろいろ断片的ながら話していただいたことは何らかの足しになったかなと思っています。 そして今それを活字にして残すこととしました。 この2冊の「ふるさと井原」の冊子で空白の井原を知っていただき、ふるさと井原に思いを馳せていただけたら幸いです。
        平成30年12月

    <第二集に収録した「あとがき」>

    あとがき
    「井原の語り部ふるさと井原続井原村誌いきざま編」第一集、第二集、いかがだったでしょうか。 平成27年5月から平成30年9月まで20回にわたって井原の語り部さんに自分の生きていた時代の井原のいきざまをお話しいただきました。 今、地方創生、ふるさとづくりが言われている時代です。 この二つの冊子を読んで、自分たちの生まれ育ったふるさとをもう一度思い出し、よき時代の井原を自分のふるさととして認識いただき、そして子孫代々まで語り継いでいただくことができたら幸いです。 また、島根の田舎にこんなところがあるんだ、そこに行ってみたい、住んでいる人達に会いたい、そして移り住もうかと思っていただけたら望外の幸せとなります。 この企画は、当時の井原公民館長鳥居晃次さん(下町)が教育委員会から「子供達は田舎から出たら帰ってこない。子供達に帰ってこられるようなふるさと意識を醸成する必要がある。」との意向を受け地域の皆さんに話しかけられ、後輩の神田恵介さん(片田)をふるさと学校の校長に指名され15人の役員とともにできたものです。発議をされ調整された鳥居公民館長のお骨折りで、これだけのものが出来たことは井原の歴史から井原村誌以来の特記すべきすばらしいものだと自負しています。 まだまだ足らないところが多々あります。これから井原の偉人野田愼翁、お祭り、遊び、炭焼きなど、これらのことを絵や活字として残しておく作業を行っていくこととしています。 皆さん方のご支援ご協力をよろしくお願いします。
                  平成31年(2019年)1月
     (平成時代最後の年、5月1日には年号が平成から○○(まだ未発表)に変わります)

    第20回しめくくり記念講演 「井原のいきざま・私のいきざま」
      〜井原を知る勉強会を振り返って〜」
        神田恵介(片田)

  • 第20回しめくくり講演地域創成ふるさと学校長神田恵介氏の講演内容を掲載します。
  • 講演はパワーポイントにより写真などを見ながらの話でしたが、紙面の都合上活字だけとします。第二集には全部ではありませんが、ポイントのところの画像は入れてありますのでそちらの方をご覧ください。
  •     講演記録

    第20回記念しめくくり講演
           平成30年9月13日
     井原のいきざま 私のいきざま 〜井原を知る勉強会を振り返って〜
         地域創生ふるさと学校校長 神田恵介
    皆さん今晩は、稲刈りの真っ最中でお疲れのところ、また今日は大雨の中をお集まりいただきありがとうございます。 この勉強会も3年前、平成27年5月から始め20回目となりました。役員会で「そろそろ一区切りした方が良いのではないか」という意見があり、「第20回目の締めくくりの記念として会長やれ」ということで、私がやらせていただくこととなりました。 これまでのとりまとめと、ちったあ私の子供の頃の話も聞いてもらわないと、と思い「井原のいきざま 私のいきざま 〜井原を知る勉強会を振り返って〜」という題で話させていただきます。 まずレジュメで今日の話の順を説明したいと思います。レジュメを見てください。 まず「はじめに」があって、「1勉強会を振り返って」ということで、これまで皆様方からお話しいただいたことをとりまとめて話します。 「2井原のいきざま」で、これまでの話を総合して井原というイメージが出きてきましたので、独断と偏見ですが、「井原という所はこうだったんだ」ということを話します。 3で私の事も話させていただきまして、私の子供の頃の井原の話を少し聞いてもらいます。 4でこの勉強会を行うきっかけを話します。 5で「誇れる井原」ということで、「井原はこんなに良いところなんだ」という話をしたいと思います。 6で今後この勉強会はどうやっていくのかというこれからの取り組み案を話します。 そして皆様方から「ご意見とかご要望」をお聞きして終わりにしたいと思っています。
    よろしくお願いします。
    <はじめに>
    それでは本題に入っていきますが、「はじめに」ということで、 私達の子供の頃は「戦争の話はするな、原爆の話はするな」と言われていました。皆さん方もよく聞かれていたのではないかと思います。 こちらに帰って来る前に東北の大震災があり大変でしたが、東北を元気づけようということで、宮城県の南三陸町というところで同窓会をいたしました。まだ三陸鉄道は通っていませんでしたので、仙台からバスで行ったんですが、生々しい傷跡がまだ残っていました。ホテルで泊まって、次の日、どんな震災だったかということを見て回るバスが出るということで乗せてもらいました。2〜30人は乗っていただろうと思います。 ガイドとかはおらず、ホテルの運転手さんだけなんですが、運転手さんも被害に直接会った方で、いろいろ体験談を説明してくれました。まだ残骸が残っていますので、大変さがよく分かったんですが、この写真、分かりますか。あの頃よくテレビでやっていたんですが、これは町の防災センターです。此処で女性の職員が、最後の最後までマイクにしがみついて「津波がきます逃げてください。津波が来ます逃げてください。」と町内に流れるスピーカーで、津波が来るまで繰り返し繰り返し町民のために放送していました。最後は自分が津波にのまれ亡くなったんですが、最初は6メートルの津波という情報だったようですが、ほんとに来たのは10メートルだったそうです。だから助からなかった。町長も此処の屋上に避難していたらしいですが、屋上以上に水が来て、町長はポールにしがみついて助かったそうです。後からいろいろ言われたようですが、そういう所です。鉄骨だけが残っていました。見舞いの花束もありました。 今、これをどおするか、原爆ドームのように残すか、壊すか議論されているようです。やっぱり何か残さないと忘れられてしまう、そういうものだと思います。大昔も津波があったそうですが、倉敷の大洪水でもそうです。そういうときに「此処まで水が来たんだよ。ここから下には家は作るな」という印を先人は残していたんですが、忘れ去られていた。残す、それを後世の人が語り参考にする。これが大切なんです。 広島で原爆がありました。井原から原爆のキノコ雲を見た方ありますか。(手を上げて)ああ一人おられますね。 私は3、4歳ごろということで、お袋がよく「東明寺の上からキノコ雲が見えたんよ、一緒に見たでしょう、覚えとるでしょう」と言っていましたが、本人は3歳頃ですからさっぱり覚えておりませんし、「本当かいな」と半信半疑でした。 最近、影末のおばさん、司法書士だった服部平一さんの奥さんですが、「うちのお袋が原爆のキノコ雲が東明寺の上に出て見えたと言っていたが、おばさん見ちゃたですか」と聞きました。「見えたよ、わたしも見た」と言われまして、影末というのは東明寺の麓ですので「影末から見えたんかな」と問いましたら、見たのは中野小学校のグランドの所の畑で作業していたときだ。まだ結婚してなくて影末に来てないときだったらしく、「私は中野だったけえ」と言われました。 東明寺の上から変な雲が出たんで、「あんなあ、なんだろうか」「入道雲にしちゃあ、変だし」と皆で言っていたそうです。「キノコ雲の下の細いところまで見えたんですか」と聞きますと、「見えたよ、変な形をした雲だった」と言うことでした。見えたことには確信を得たところです。今日もお一人の方が見ておられます。
    {3原爆きのこ雲は井原から見えたか}
    計算をしてみますと、井原の海抜が170メートル、小学校のグランドの所の碑に書いたります。中野はもう少し高いと思います。東明寺は496メートル、差が326メートルで、広島まで約50キロありますので、これを伸ばせば、1万6千300メートルとなります。調べてみますと、キノコ雲の高度は、広島市立大が、「16,000メートルまで達した」、軍の観測機では「17,000メートル」と言われています。井原から東明寺までを約1キロとして計算していますので、もう少しは長いので、充分見えたのではないかと思います。 今、原爆についても広島の方では「語り部」さんとして実際に被爆された方がその体験談を話しておられますが、だんだん年寄りになって、最近は体験したことのない人がその語り部さんの話を引き継いで原爆体験について語ってられるようです。語り継がなければ忘れられてしまいます。そういうことだと思います。 また、最近テレビでやっていましたが、特攻隊の話、ぼちぼち語る人が出てきたと言っていました。この勉強会でも奥滝さんが話をされていましたし、柘植さんも特攻に行かれていたという話がありました。しかし、ホンのさわりしか話が聞けませんでしたが、まだまだ、生々しい話を知っておられるんではないかと思います。 こういう風に残すことの大切さが言われるようになってきました。
    <1勉強会を振り返って>
    今回話していただきました、井原の語り部さん。それを活字にして残しております。活字興しは自前でやっております。「井原はこうだったんだよ」と言うことを残しておくためには良かったなと思っております。井原はほんと資料とか記録になっているものが何にもないところだなあと思いました。どこもそうだと思いますが、大正後期から戦争中のところが無いんです。「空白の井原」と言っているんですが、ほんに昔のことが分からない井原になっていたところです。井原の語り部さんの功績は大きいのではないかと思います。 私も帰りまして、いろいろ知りたいなと思って、「井原のことは藤田典幸さんが一番よう知っとんさる」ということで、いつか聞きに行こうと思っていたんです。そんなや先に突然亡くなられて、「しまったなあ」と思いましたが、後の祭り。「知っている人には早うしゃべっておいてもらわなきゃあ」と思って皆さん方にお願いしたところです。皆さんも快く引き受けていただき、だいたいの空白は埋まったのかなと思っております。 もの知り博士も27人になりましたし、私も知らないことがたくさんあって勉強になりました。日野山義晴先生が話を聞きながら「そがあなことがあったんかいのう、わしゃあ知らんかったで」と言っておられましたが、あの人がそういう風に言われるんですから、皆さん方も勉強になったんだろうと思います。
    {6溝口島根県知事から「奨励賞」受賞}
    この勉強会によって井原の地域力が上がったと思っております。また県知事さんからは奨励賞も頂きました。 賞状の中に「建築・住宅コンクール」となっていますが、何で建築なんだということですが、実は私がこちらに帰ってくるのに自分の住んでいた実家を改修しました。古民家を昔のままで、自分としては立派に改修したつもりでした。これからUターンで返ってくる人の参考にしてもらったらいいと思っていましたし、大工の棟梁さんと設計士さんを東京に呼んで古民家が建ち並んでいる古民家園を見てもらい施行してもらったんです。「古民家改修はこういう風にするんだ」という自負もありましたので、こんなに立派に改修したんだから表彰されるかなと思って応募したんです。3回ぐらいしましたか、毎回駄目でした。県庁の方が「何か活動されていたらそんな部門もありますよ」ということがありまして、「そんならこの勉強会を」と思って出したら一発で「奨励賞」ということとなったんです。そんなところで勉強会が建築住宅ということとなっています。
    {7語り部第1集第1回〜10回} {8第2集第11回〜20回}
    勉強会のトップバッター一番目は、そのごろ一番よく井原を知っておられるのは日野山先生だということで日野山先生に話をしてもらいました。開校式と一緒にして時間も短かったんで続きをと思っておりましたら、日野山先生もお亡くなりになり、大変残念な事をしました。藤田先生にしても、日野山先生にしても亡くなられたということは「井原の財産の損失」だと思っております。 そして宮田さんから断魚の野田愼さんのこと、下田先生から井原の地名とか由来、いろいろ教えていただきました。毎回のことをみんな説明していたんでは時間が足りませんので、見ていただいたらと思います。この1から10回を第1集として冊子にしております。 そして11回の奥滝さん、90歳を超えられ高齢で耳が遠いんで石飛さんに補佐して話をして頂きましたし、甲村さんの昔の結婚式にまつわる話、いろいろ話して頂きました。11回目から今回の20回ですが、これも第2集として冊子にします。講師でしゃべって頂いた方は本当に良かったと思っております。安田先生のように「井原から始まり井原で終わって、最後に井原でこんな話をさせてもらって、これでもう冥土に行ってもいいや」と言うような方もいらっしゃいました。 皆さんの中には、「しまった。わしも、しゃべっとけば良かった」と思われる方あろうかと思います。おられたらまだ再開しますので言ってもらったらと思います。
    {9井原物知り博士27名誕生} そしてもの知り博士27名です。
    {11井原とは}
    <井原のいきざま>
    それでは2の「井原のいきざま」に入りますが、皆さん方に語っていただいたことを総合しますと、井原のイメージが出来ました。独断と偏見でまとめさせていただきました。 「井原とは」「井原の産業、暮らし」そして「井原の文化」です。 まず「井原とは」、井原は大昔からあった、存在したという話がありました。宮田さんやら、吉川さん、森岡さんも話しておられましたが、井原は大昔から伝統のあるところのようです。 「二千数百年縄文、井原川は良い狩猟の場、断魚築廻し遺跡」があるという事が「石見町誌10周年記念誌の冒頭に書いてあります。
    {12天蔵寺・寺の前遺跡}
    また、「久永の庄」、今の天蔵寺の下の方らしいですけど、社もあったようで、いつか町が地形調査をしたとき天蔵寺の沖の方で大きな建物などの埋蔵の跡が出てきたようです。森岡さんも話しておられます。町の文化財係に聞きますと圃場整備の時、1メートル近い柱の基礎の跡が10本以上出てきたそうです。大きな建物だったと思います。東西約300メートル、南北約400メートルの敷地跡のようです。出雲大社は1メートルの柱が3本束ねて大きな柱にしたというのが残っていますが、そこまではゆきませんが1メートルの柱がたくさんあり、広大な土地に社があったということはすごいことだと思います。復元したらすごいものになると思います。この関係については石見町文化財調査報告書第18集「天蔵寺・寺の前遺跡」として当時の発掘の状況が残されています。その中にも「弥生時代中期から中・近世に至る長大な期間にわたり継続的に営まれた遺跡」と書かれています。 また大正6年の井原村誌には「井原村ハ邑智郡ノ殆ド中央ニ位シ・・・」と書いてあります。 そして、下田先生の井原の名前の由来にも出てきましたが、「邑智三方ノ稲ハ井原ニ積シトカ今ノ稲積山・・・井原ハ稲原ノ転ジ・・」、稲の原だったんで名前が「井原」となったんだとか、湯の原っぱだとか、名前の由来はいろいろありましたが、とにかく地域の稲がみんな集められたような村だったということです。 名勝では、断魚渓がありますし、シンボルで冠山、雲井城、東明寺もあります。そして今も261号線が通っていますが、濱田や大田銀山に行く分岐点で交通の要所でもあります。
    {13井原の産業、くらし}
    井原の産業・暮らしでは、稲作、林業、製材、木挽き、炭焼き、蚕、鉄穴流し(砂鉄)、麻、たばこ、そば、乳牛があります。井原村誌には「本村民ハ殆ンド農業ニテ工商従業者ハ至リテ少数ナリ・・」とあります。今と同じように、主には米作りだったようです。そして、牛、にわとり、山羊、兎を飼っていましたし、海浜からは行商のおばさんが魚を持ってきていました。主に鯖、塩鯖を持ってきてくれていました。お祭りとか正月は「ぶえん」と言って生鯖で刺身を作っていました。買うのに家にはお金はありませんので、米一升と交換していたのを覚えています。一升のはかり方も教えてもらって、ギュッと押さえて入れるのではなくお櫃でさっと一升升に一杯入れて上を手のひらで横にスッと切っていく、というようなもんです。 そして服部さんの話にもありましたが、富山の薬売り、「まんきんたん」とか言っていました。
    {14井原の文化}
    井原の文化では、五大祭り、大元神楽、文化娯楽の中心地は雲井館です。偉人は断魚開発の野田愼翁、そして村振興では稲積克巳さん、まだまだおられると思いますが、一番は稲積さんかなと思います。 だいたい井原のイメージは皆さん方の話を聞くとこんなところかなと思います。
    {15私のいきざま} <私のいきざま>
    次ぎに私の子供の頃のことも少しお話ししたいと思います。 先ほども話しましたが、こちらに帰って来るときに実家の古民家を直しました。稲積さんとこみたいに庄屋じゃあありませんで、大きくないんですが、典型的な百姓農家で、間取りが「田の字」の作りとなっています。「おもて」があって「かむで」「かって」「なんど」の4間とそれに土間があります。それを全く変えずにそのままの間取りとしています。増築などは一切行っていません。同じ建坪。大きな梁があるんですが、そういう梁なども真っ黒のまま全部残しました。しかし屋根だけは茅葺きというわけにはいきませんで、瓦で最近の太陽光パネルを上げています。そして水回りも使いやすいように最新のもの、台所は最近流行のアイランドキッチン、料理するときぐるっと囲めるようになっています。他は障子も板戸も柱も昔のままです。 屋根だけ見て「なんで古民家だ」とよく言われますが中に入ると土間が広く残っており、上を見ると真っ黒の大きな梁が出て、板戸と障子で、夏は涼しく冬は寒い昔のままの古民家です。もちろん囲炉裏も再現しました。
    {16古民家の定義}
    古民家の定義なんですが、東京から帰るときにいろいろ勉強しました。「古民家の定義」というのがありまして「木造軸組構法で建築されてから50年以上経過した建物」(古民家解體新書)となっています。勉強したついでに1級古民家鑑定士も取りました。 私の家は「築150年」と言っています。それが町から来る固定資産税の調書に「明治9年築」と書いてあったんです。明治9年からだいたい140年ぐらい経っていますので、これはということで最初「築140年」と言っていたんです。それがある人に聞きますと、下田先生でしたかね、そこに書いてあるのは、「固定資産台帳制度が出来たのが明治9年で、その時あった建物はみんな築9年と書いてあるんだ」と言われまして、それより古いということが分かったんです。今は「築150年」と言っています。まあ古い、今まであった天井を取ったら煤で真っ黒な梁が出てきまして、そのまま太い木で組んだ梁が見えるようにしています。暗いです。昔はほんとに田の字だけの家で、囲炉裏を焚いて煤を出て虫除けや屋根を強くしていました。それに家の中には土間があり入り口から台所に通じ後ろの勝手口に出て行けるようになっていました。土間は入ったおもてに上がるところをそのまま残しています。便所とか風呂は、私が小さいときも母屋にあるのではなく離れてありました。えんかや水屋は後から付け足したものと思います。梁には蝶手(ちょうな)の跡が残っています。この蝶手の跡があるのが「築100年以上の証拠」だそうです。昔はこの蝶手を使って大きな梁を削っていたようです。蝶手は写真のものですよね。皆さんもまだ覚えておられると思います。 家では農作業のお手伝いもしていました。農家で田んぼを作っていましたんで、牛を使って耕したり、代をかいたりしていたんですが、あるとき鋤を使っていて牛が急に動いたもんで子供でコントロール出来なくなり、鋤の一番先ちょの一番重要な土を掘る金属の刃の所を石に当てて折ってしまったんです。鋤は使えなくなりました。それから牛使いはやらせてもらえませんでした。(笑い) おじいちゃんは何でもよく知っていましたね、やっぱり家の長という感じでした。座る位置もこたつの横座というのがありますが、あそこが定位置で、私達は座らせてもらえませんでした。それに食事の時はみんな揃うまで待っておじいちゃんの「いただきます」で始まっていました。祖父母、父母、兄弟3人の7人家族でした。食事で使う箸、茶碗は自分のが決まっていまして、それを入れるところは飯台の自分の座った所の台下に引き出しがありそこに入れます。食べるときにはそこから出し食事が終わったら、またそこに仕舞っていました。食事が終わったらお茶を飲みますが、そのお茶で茶碗と箸を洗って入れるんです。 「赤ちゃんのおむつ」と書いておきましたが、これはこの前、邑智病院の荘田院長から聞いた話ですが、昔は布で丸く繋がっている布のおむつで、赤ちゃんがおしっこをしたらむずがって泣くんで1回1回取り替えていました。しかし最近は紙おむつというのが出てきて、吸収力が良くて3回ぐらいはいいんだそうですね。赤ちゃんも3回ぐらいおしっこすると濡れた感触があるので泣いてしまうようです。ということは昔はおしっこたんびにスキンシップをやっていましたが、今頃は3回に1回で、だっこする機会が少なくなった。これは赤ちゃんの情操教育に良くないんだそうです。やっぱりいつもだっこしてやっていたらいいんですが、今はそういう時代となっている、という話を聞きました。やっぱり昔は赤ちゃん教育にも良かったんですね。 そして「頼母子講」、「もあい」相互扶助ですね、「火の用心のカチカチ」というのもやっていました。 そして「たらの木坂の思い出」としていますが、たらの木坂、以外と急なんです。私は片田ですのでいつも此処を通るんです。「木炭車ぶら下がり」小学生の頃は此処を上がるのが大変で、昔木炭車というのがありまして、今はガソリンですが木を焚いて煙りを出しながら走るんです。だからあんまり早くないから子供でも着いて上がれるんですが、これの後ろにぶら下がって坂を上がったら楽ちんなんです。よくやっていましたが、よく怒られてもいました。 「牛の大八車」昔は焚き付けや柴などを日向の方から大八車に乗せて持って帰っていました。町まではなんとか平らなんで帰るんだけど、このたらの木坂が上がらないんです。 それで井原の橋の所まで帰って、三ツ丸の縁下で一休みさせてもらって、家から牛を連れて来て牛に大八車を引かせて上がるんです。もちろん牛もしんどいんで、私達も後ろから押して上がっていました。 「ボロ買い」今で言う廃品回収業さんですね。これが小学校の校庭に来まして、私は姉と一緒にさっきの大八車に要らないもの、ボロを一杯積んで持って行ったことがあります。そしてボロを計って商品と交換してくれるんです。その交換してくれる商品が飾ってあって、だいぶボロを持って行ったんで、おじさんが「これん中のどれでもいいよ」と言われたんです。私はそのごろ野球が好きで野球をやっていましたから、服部さんの話にありましたがミットが欲しかったんです。その中を見るとそのミットがあるんです。そのごろミットは高級品で、それが一番高そうで、果たして持ってきたボロでこれを交換してもらえるのかどうか、もしも「これはもうちょっと持ってこんと駄目よ」言われたら恥を掻くし、子供ながらに思って、よう言わんかったんです。そうしよったらお姉さんがよう出来た姉で「学校に行きよるんだから、ノートと鉛筆がいいよね」言うて、それを沢山もらって帰ったんですが、「もしかしてミットがもらえたかもしれん、よう言わんかってしもうたな」と帰ってから、だいぶ愚図をくったようです。「ミットがほしかった」言うて。内弁慶だったですので家ではやんちゃをこくんです。そしたらお母さんがミットを厚手のつぎ(布)を当てて作ってくれたんです。ファーストミットみたいに細長かったですがうれしかったのを覚えています。 「秋祭り」昔の秋祭りは、井原は井原、中野は中野と決まっていて、親戚の人がみんな集まってご馳走をして酒を飲んでワイワイやられていたことを覚えています。だから各家にお膳とか、食器とかが揃ろっていたんだと思います。今はみな蔵に入れてありますが、骨董品となっています。「こがあな古いもんは使わりゃあせん」いうて捨てないようにしてください。昔の物はがっちり作ってあり今では超高級品なんです。笹畑に持っていかんように。そして町(まち)には特に下町ですが、露店がたくさん並んで、賑やかでした。バナナのたたき売りとか、皿や茶碗の瀬戸物の競り売りとか、おもしろかったです。小遣いを10円もらって、あめ玉を買っていたものです。沢山の人が出て活気がありました。 「井原を鼓舞する歌」これは皆さん方も唱っておられたんじゃあないかと思いますが、やっぱり他の地域と対抗意識が強かって、これは此処だけの話として、矢上やら中野の人が聞いたら怒られるんで、此処だけで活字にしないようにしたいと思いますが、 「♪日和が・・・、♪矢上が・・・、♪中野が・・・、♪井原が威張ったげな」と言う歌なんです。(笑い)小学校から帰るときにはたらのき坂を一人で歌って帰えっとりました。これは活字にしません。 「炭焼き」私のうちは炭焼きをだいぶしていました。私も手伝いに行っていました。臼谷の奥、井村に近いところだったと思います。此処はだいぶ山の上で中腹ぐらいに窯が作ってあって、登って行った記憶があります。炭を作って俵に入れてオイコで担いで降りるんですが、大人は3俵ぐらい高く積むんですが、私は1俵が精一杯でした。雨の日なんかは滑るし、あれで足腰がだいぶ鍛えられたんだと思います。日向の奥、日高邦男さんとこの奥の方にも行きました。下対にも行ったことがあります。これは道ばたのような所に窯があって、泊まったりしておりました。炭焼きは火を絶やしたらいけないんす。24時間監視で、のぞき窓がありまして、この窓から見る炎の色が一定でないといけないんです。 「断魚の道造り」ですが、野田愼さんが断魚を宣伝されて道を作れという事になったんだと思いますが、私の所もおじいちゃんの親父かおじいちゃんのおじいちゃんか分かりませんが、この道造りを県から請け負ったらしいんです。昔ですので断魚の川に沿って道が出来て、明日は川本の県の役人に完成の検査をしてもらうというところまで行ったんですが、その日の夕方から台風が来て大洪水になった。作った道が一晩で全部流されたらしいんです。検査が終わっておればよかったんですが、役人の検査がまだで道が洪水で流されたんで、また作らなければいけない。請け負っていたもんだから、仕方なかったようで、金はないし、借金をしてやり直したようです。それで大損してそして借金を作って、その本人は出家をしたと言われていました。長野の方に行ったとか、余り教えてもらえませんでしたが、お袋も嫁に来たときは借金取りが来ていたと言っていました。断魚隧道完成の写真におじいちゃん(一郎)が載っているんです。「どうして」と尋ねたらそんな話をしてくれました。多くは語りませんでした。土地の登記簿にもまだ借金の担保の記載が載っています。明治42年で510円と書いてあります。当時の510円がどれぐらいだったか調べてみましたら、何を基準にするかでいろいろあるようなんですが、お巡りさんの給料が8〜9円、庶民にとっての1円は2万円と書いたものがありました。そしたら1千万円という事になります。また物価で見ますと1円の価値は3,800円というのもありまして、200万円ぐらいなんですが、それにしても大借金をして、 抵当権登記だけはそのまま残こっとります。まあまだ返してないということはないと思いますが、これは土地の登記簿なんですが、家の登記簿にも附いております。 と言うところで自分の話は終わらせていただきます。
    <勉強会を行うきっかけ>
    次ぎに、この勉強会を行うきっかけですが、 私も4年前東京から帰ってきまして、いろいろな方にお世話になりました。特にその時公民館長でした鳥居晃司さん、昔は「晃ちゃん、晃ちゃん」と言っておりまして、私の1年先輩です。一緒に野球もやっていて晃ちゃんがキャップテンでした。そういう関係でいろいろ教えてもらったりしていました。「公民館にもちいったあ遊びにこいや」言われまして時々顔を出して話しをしていたんですが、いつか「人口減少対策で教育委員会から子供のふるさと体験教育を各地区でやることとなった。井原の関係をあんたがやってくれんかいの、あんたしかおらんのんだ」言われまして、だいたい先輩後輩の仲というのはもう命令ですから、昔は運動中は先輩命令で水も飲ませてもらえない時代でして、「やれ」言われたら「ははあ〜」ちゅうようなもんで(笑い)、「内の奥さんが事務でおるんでいろいろやるけえ、使うちゃんさりゃあええけえ、大丈夫だけえよろしう頼むわ」ちゅうようなことで。それに今の館長の大田喜作さん、喜っちゃんですが、1年後輩野球部で、これがまた上手に「そりゃあやっちゃんさらにゃあ、ちょうどええが」とか言われてやるようになったんですが、まあ晃ちゃんの奥さんにはほんとによくやって頂いておりまして助かっているところです。よう面倒を見ていただいております。 まあ私もだいぶ井原を離れていましたので、井原のために恩返しといいますか何かしなければという気持ちもありました。 子供のふるさと体験教育いうても、子供さんも宿題はどうか分からんのですが、今頃は塾とか、地域の行事、公民館行事もありますし以外と忙しくて、その上にまた「これをやれ、あれもやれ」と言っても、子供も大変でどうかなと思ったところです。私らが子供の頃は、宿題はあったかどうかあまりやらんかったけえ分からんですが、「子供は遊ぶもんだ」いうて学校から帰ったらすぐランドセルを置いて遊びよったもんで。だいたい私達のふるさと教育というのはお父さん母さん、おじいちゃんおばあちゃんなど家庭でいろいろ教えてもらったことが多いんです。学校教育は新しいことを教えますが、家庭では正にふるさと教育をする。家で田植えの手伝いをしたりどこかに連れて行ったりしてもらって、その方が一番いいんです。そう思ったんですが、そうしたらその教える家庭の人が「井原のふるさとことをどれぐらい知っとるか」。これが意外と知らないんですよね。私もあまり知りませんでした。 これはまず大人教育をしなきゃあいけん。大人教育が子供教育に繋がると思いまして、「風吹けば桶屋が儲かる」式の教えになるんですが、まず大人教育をやって、大人に井原のふるさとの良さを知って頂いて、それを子供に伝えていただこうと思った次第です。一緒に住んでいる大人(家族)がふるさとを好きにならなければその子供が好きになるはずはありません。
    {20地方創生ふるさと学校創設}
    {21井原村誌}
    それで「地域創生ふるさと学校」というのを創って、勉強会を始めました。そしたら他の地域の方も昔のことをおさらいしようと写真など出してやられたところもあったようでした。 「井原いきざま総合研究所」といういかめしい名前を付けて役員15人に集まっていただきやり始めたんですが、ふるさとの井原のことを書いたものがないんです。そのうち「井原村誌というのがあった様な気がする」と石飛さんが言われまして、探したんですがこれがまた無いんです。だいぶ探しました。だいぶ経ってから石飛さんが執念で「江津の方の人が持っとった」ということで1冊ありました。これがガリ版刷りでぺらぺらの紙に刷ってあり、そしてカタカナで書いてあって読みにくかったんです。 大正6年に大正天皇即位記念事業として作成され、こんなもので詳細な地図まで出ています。そして目次には、第1として地理的事項、位置から、地勢など、第2として歴史的事項、碑の伝説とか人物伝、ここに野田愼さんも書かれています。カッパの話もあります。カッパは遠野だけでなく井原にもあるんです。「エンコウ」言っておりましたよね。井原のカッパは。この井原村誌については宮田さんがだいぶ翻訳してくれてこの勉強会で披露されたところです。 そのほか資料とか写真がないんです。学芸会などをしよった雲井館の話はよく聞くんですが、雲井館の建物の前に掲げてあった看板もだいぶ探したんですがどこからも出てきません。看板はあの頃のことだから古い木で作ってあったんじゃあないかと思ったんですが、「ブルキだった」という人もいるし未だにありません。写真もありませんでした。井原に写真屋がなかったせいもあるんかもしれません。 古文書は稲積邸には昔の庄屋ですのでたくさんあるんです。今も稲積さんが苦労して専門家の方と翻訳されていますが、大変なようです。たぶん、出来たらおもしろいもの(実録)が出てくるんではないかと思います。 もう長老に聞くしかなかったんです。経験した覚えていることをしゃべってもらう「語り部」です。で「井原を知る勉強会」を開始して、初回はその時一番井原を知っておられる日野義晴先生にお願いしたところです。
    {23空白の井原を埋める語り部}
    というようなところですが、これまで話したことを表にしてみますと、大正6年の井原村誌、戦争時代、昭和20年の終戦、昭和30年の町村合併、現在平成30年です。人口は大正の2,117人から町村合併の時が1,872人と余り変わりありませんが、現在は663人で高度経済成長やら一極集中などで都会に出て行く人が多く田舎は激減しています。どこも同じ。世帯は町村合併では増えていますが、核家族化ですか。現在は人口に添って少なくなっています。家ですのでそう変わっていないというところです。 産業は大正時代が米、麻、麦、木炭、材木、繭、これは井原村誌に載っていることです。そして町村合併の昭和30年は稲作、林業、炭焼き、蚕、麻、煙草、蕎麦、乳牛、あまり大正時代と変わっていませんが、現在はこれというのはなく稲作が続けられているというところでしょうか。 この戦争時代から町村合併までの「空白の井原40年間」のところが分からなかったんです。このたび皆さん方に語って頂きまして、イメージが出来て記録も出来たのではないかと思っています。
    {25井原五大祭り 大元神楽}
    <誇れる井原>
    皆さんからの話をまとめてみますと、 「誇れるふるさと井原」として伝えていかなければということが皆さん方の語りから出てきたのではないかと思います。「これが井原だ!」というものです。 「井原五大祭り、大元神楽」、五大祭りの彼岸市これは3月21日、泥落としドンツク田植えが終わった6月、盆踊り8月15日、稲刈りが終わっての秋祭り10月27日、運動会11月3日、この日は毎年なぜか晴れなんです。大元神楽、5年に一度の式年祭ということで朝まで舞います。私も子供の頃、折居神社で地域ごとに縄が張ってあり朝まで寒いところで鬼が蜘蛛の糸を手から投げて舞うのを見た記憶があります。
    {26雲井館見取り図}
    そして「文化娯楽の唯一の建物」雲井館、見取り図を思い出すまま書き出して見ましたがいかがでしょう。違ったところは直してください。出来れば再興再建をお願いしたいものです。
    {27街み下町の地図}
    {28井原にある道する部石柱}
    そして「街並み」特に下町。最近は歯抜けが多くなっていますが、子供の頃は沢山の人が出て賑わっていた思い出があります。 此処に道標石柱があります。昔の住み木屋前です。宮田さんも指摘されておりましたが、別れ道なんですよね。その石標、「右大社温泉津道」「左濱田有福道」この右の下に「御」か「脚」か、その下にも文字が彫ってあるんだと思います。またいつか掘り起こして見たいと思っています。町の方はよく覚えておいていただきたいと思います。
    {29井原の遊び}
    「井原の遊び」野球、ソフトボール、ドッチボール、相撲、 パッチン、おじゃみ、はじき、独楽回し、ビー玉、はねつき、タコ揚げ、竹馬、竹とんぼ、パチンコ(Y字型の木からゴムで飛ばすやつ)、水鉄砲、釘での陣取り、ポプラでの相撲、福笑い、カルタ、ハンカチ落とし、 かくれんぼ、鬼ごっこ、だるまさん転んだ、ケンケンパッ、押しくらまんじゅう、缶蹴りなどがありました。
    {30炭焼き}
    それとこのあたりは「炭焼き」です。井原は鉄穴流し、たたら伝説があります。炭は将来、希少価値のある超高級商品となります。作り方を伝える技術書が必要です。頭が悪かったらみんな灰になります。是非作っておいていただきたいと思っています。 そしてこの自然景観ですね、「♪兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・」これが井原なんです。 断魚渓、冠山、雲井城、東明寺山、井原川、道標石柱、 雲井館、古民家、このあたりはみんな古民家です。稲積邸、穗純旅館、村役場跡、農協建物跡、 神社、お地蔵さん、お寺、
    {31田園風景のある自然、景観}
    田園の景観を変えないということ、これが大切です。段々畑、田んぼ、あぜ道。 誇れるものを残さないといけません。 私は出て行ったとき最初の頃は、「島根出身です」これが言えなかったです。どうも抵抗感がある。貧乏県という感じでした。今は違いますが。 井原から出て行っても、「島根の邑南町井原出身です」これが言えるように。でないと「ふるさと意識」と言うところまで行かないのではと思っています。
    {32今後の取り組み}
    {33ふるさと井原}
    <6 今後の取り組み>
    最後になりましたが、これで勉強会は一区切りです。これから今後の取り組みとして ふるさと井原第1集は出来ていますので、次は第2集を今年度に作ります。 そして@井原が生んだ偉人野田愼翁の紙芝居、A井原の遊び冊子、B井原のお祭り冊子、C炭焼き教本、Dドローンによる井原空撮。そういうものを作っていったらと考えています。 そしてこの冊子を元に子供さんにも大人も感動体験をして頂いて、ふるさと意識が出来て「誇れるふるさと井原」にしなければと思います。 というところで私の話は此処で終わらせていただき中締めとします。ご静聴ありがとうございました。
    (拍手)
    <ご意見ご感想>
    これから皆さんにご意見ご感想ご要望などをお聞きしたいと思っています。 1人2分以内でお願いします。 何でもどうぞ (子供の頃、いつも日向に帰る途中で、野田木工所の前当たりに鶴屋旅館というのがありましたよね。腹が空いたときいつもいい臭がしよったのをよく覚えとるんですが、その建物が今矢上の町の入り口の小田さんの家、はんこ屋さんをしとっての所が鶴屋旅館の建物じゃあないかなあと思うんですが、昔の丸い出窓があるし誰か知っとられる人はおられませんか。) (あれは野田省吾さんがつくりんさったんだけえ) (2階建ての大きな建物だった。その隣に有田さんに向かって上がる道があり、そこに畝田さんいうて履き物屋があった。) (鶴屋言うたらどっちかいやあ飲み屋みたいだった) (そうそう、玄関入ったら、あこでホルモン焼きのいい臭いがしよった。一杯飲み屋みたいな感じだった) (片田は帰る方向が違うけえあんまり分からんかもしれんが、誰か知っとられたらまた気をつけて矢上の小田さんの建物を見てください。あれが井原にあった鶴屋を移築したもんかどうか。見とんちゃんさい。) (さっき、炭焼きの話が出たんだけど、阿須那で今年の3月に炭窯を作ってこの前2杯目を焼いたんです。阿須那のは阿須那式という炭窯で、最近は改良じゃいうて吾三久窯とか言うんじゃあなかったかと思う。だいたい邑智郡あたりでやっているのは島根やなしきという釜形です。そういうものをよう勉強して教本を作ってください。多分両方の釜の作り方の本が阿須那にはあったと思います。) ありがとうございます。昔からの本格的な形のもを作りたいんで、阿須那のものも参考にしながらやりたいと思います。 ありがとうございました。
    {36おわりに}
    <おわりに>
    最後に岩国に宇野千代さんの生家がありますが、最近行きまして、「人生は、行動すること」だそうです。 また、山形米沢藩、山形はそば処なのでよく行っていましたが、上杉鷹山「成せばなる、成さねばならぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」。 また松代藩佐久間象山は「何かを始めようとすれば、何もしない奴らが、必ず邪魔をする。蹴散らして、前へ進め」こういう風にも言っています。 井原をよくするためにこれからの皆さんの活動をよろしくお願いします。
    {37井原縦断夢の川下り}
    夢です。
    「井原縦断夢の川下り」
    井原川を日向から断魚まで転覆しない船で、川下りをする。それを対岸からそばを食べながら見学する。井原粋な風流の夢でした。 ご清聴ありがとうございました。
    (笑い、拍手)




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